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カテゴリー「コラム(ためになりそうな話)」の36件の記事

2012年1月13日 (金)

人間は何のために生きてんのかな

昨年の暮れから正月休みにかけて映画をいくつか観ました。

 

50歳を前にしてあれほどのアクションが演じられるトム・クルーズ(Mission: ImpossibleーGhost Protocol)も素晴らしかったけれど、DVDで観た、寅さんの「男はつらいよ 第39作 寅次郎物語」の中に素晴らしい台詞があったので、記しておきます。

 

映画の終盤、寅さんの甥っ子、満男(吉岡秀隆さん)が、寅さん(渥美清さん)を駅まで送るシーンで尋ねます。

 

(満男)伯父さん

 

(寅さん)何だ?

 

(満男)人間ってさ

 

(寅さん)人間? 人間どうした

 

(満男)人間は何のために生きてんのかな

 

(寅さん)そんなぁ 難しいこと聞くなぁ えーっ

 

   うーん
   何ていうかな

 

   ほら

 

   あー 生まれてきてよかったなって思うことが
   何べんかあるじゃない

   ねっ

 

   そのために人間生きてんじゃねえのかな

 

(満男)ふーん

 

(寅さん)そのうちお前にもそういう時が来るよ うん
   まあ、頑張れ!

 

と言って、寅さんは駅の改札へと去っていくのですが、その後のシーンでテキ屋仲間に同じ質問をしてみたり、映画の中ほどに、好き放題に生きて女房と子供を遺して死んでしまったテキ屋仲間の位牌に向かって、酔っぱらいながら、「お前は何の為に生まれてきたんだ?」と問いかけたりするシーンがあったりと、「人間は何のために生きているのか」というのがこの作品の大きなテーマになっていたように思います。

 

寅さんの答えは、いかにも寅さんらしい言葉です。
じわっときますね。

 

これからも「生まれてきてよかったな」という喜びを味わえるように生きていこうと思います。

 

2011年9月15日 (木)

ノーサイド(NO SIDE)の精神について

野田総理が民主党代表選に勝利した際に使ったことで初めて知ったという人もあると思いますが、ノーサイドとはラグビーの精神を表す言葉です。

 

つまり、戦い(試合)が終わるホイッスルを主審が鳴らしたらノーサイド、つまりサイド(陣地)を分けず、敵と味方の区分けを無くすということです。

 

 

 

ところがこの「ノーサイド」という言葉が通じるのは日本だけであることを、少し前の新聞の記事で知りました。
家でとっている中日新聞の夕刊にある「スポーツが呼んでいる」というスポーツライターの藤島大さんが書かれているコラムにあった内容からです。
(中日新聞 夕刊 2011年9月6日付け(だと思う))

 

 

 

3年前、ラグビー誌で藤島氏が司会をした対談があり、元ニュージーランド代表のジョナ・ロムー氏、豪州代表のエディー・ジョーンズ元監督とジョージ・グレーガン元主将、そして当時サントリーの監督であった清宮克幸氏の出席の中、ロムー氏が

 

「ラグビーがユニークなのは激しく戦った相手とフィールド外で友情を結び、長く続くところでしょう」

 

と述べたところ、清宮氏が、

 

「ノーサイドの精神ですね」

 

と返した。
ところが、ロムー氏も他の二人もポカンとし、ジョーンズ元監督が、

 

「初めて聞く言葉です」

 

と答えたということがあったのだそうです。

 

 

 

 

では、ノーサイドが日本発の言葉であるかというとそういうことでもなく、1991年にNZで編まれた「ラグビー百科事典」には、

 

 

 

[ NO SIDE【古語】 試合の終了を意味する ]

 

 

 

と記されているとのことです。
ただ、その表記を見る限りは、精神的な意味で使われるものでは無いようですね。

 

 

 

いつから日本でノーサイドという言葉が、これほどの意味を持って使われるようになったのかは分かりませんが、先のロムー氏の発言も同一の精神であることには変わりなく、イギリス発祥のこのスポーツは「紳士のスポーツ」と称される通り、フェアな精神で精一杯のプレーするからこそ、敵味方に関係なく相手を称えるということができるのだと思います。

 

 

 

(おおよそフェアなプレーをしているとは多くの人が思っていないだろう)政治の世界で、「ノーサイド」という言葉を使われることに違和感や不快感を持っている人も少なくない思いますが、ひとえに「この国のため」という純粋な気持ちで存分に働くということであれば党派や敵味方を超えて、その精神を発揮してもらいたいとそう思います。

2011年4月11日 (月)

「慣れる」ことと「画一化」への不安

3月11日の震災から一ヶ月が過ぎた。
当初に比べると、メディアの扱い方も、私たちの意識も少し変わってきたように思う。

そんな中、最近、実はとても怖いことではないかと感じることが二つある。
それは「慣れ」ということと「画一化された意識(空気)」である。

本来「慣れる」ということは、悪いことではない。
「慣れた」ことで油断して失敗する。とか、贅沢に「慣れる」というようにマイナスの意味で使われることもあるが、仕事に「慣れる」とか、不自由な生活にも「慣れる」というように、「慣れ」とは人間の適応能力の一つでもある。
ただ、「慣れ」は、場合によっては「麻痺」と紙一重だといっても良い。

当初、原発から放射性物質の流出が発生したという事実を知ったとき、私たちはそれを衝撃的に受け止めた。
しかし、シーベルトとかベクセルといった単位が耳慣れて来るにつれて、1000倍とか、何万倍とか言われても、当初ほどの衝撃を感じ無くなってきている。
メディアの扱いも小さくなった。
当初よりも重大な出来事や数値に対して驚かなくなってきている。つまりこれは「麻痺」してきているということではないだろうか。
もちろん過剰に反応することは論外だが、麻痺した状態では正しい判断が出来にくくなることも事実だろう。
これは、とても怖いことではないか。

もう一つの心配は、メディアの論調も私たちの意識にも、多様性が乏しくなってきたように感じることである。

少し前に、アエラという雑誌が「放射能が来る」という、表紙タイトルで販売をしたときに、「不安を煽るな!」ということで非難が殺到したそうだ。

しかし、
放射能(正しくは放射線だと思うが)は「実際に来ているのである」。
日本だけでなく、世界中に拡散している。
これは、間違いのない事実である。

もちろん、いたずらに不安を煽ることはしてはいけない。
アエラ(他のメディアに同様だが)についても、後ろには商業主義が付いて回るのは当然だろう。扇動的なコピーで多くの人に買ってもらいたいという意識がまったく無かったとも思わない。
ただ、それを理解した上でも、事実として起きた事象に対する多様な意見や考えはあるべきで、その発表を阻止しようとすることがあってはならないと考える。
(もちろん限度というものはあるけどね)
あくまでも、それを購入するかどうか、読むかどうか、どう受け止めるか、を決めるのは読者なのだから。

大昔のことであるが、J・F・ケネディ大統領が暗殺された事件で、アメリカのTVメディアは、その多くが亡き大統領の業績を振り返り、国民が哀悼の意を表している映像を伝えたのだが、その一方でそれとは逆のシーンも併せて放映した放送局があった。
それは、南部の小学校で先生が「ケネディ大統領が死亡しました」と伝えた瞬間、「子供たちが立ち上がって拍手をする」シーンだった。
ケネディが掲げた「人種融合政策」に対して、それほどまでも強い反対があったということなのだろうが、ひどい話である。

当然、不快に感じた人も多かったろうし非難も浴びただろう。
ただ、「そんな映像は放映するな」という人は、ひょっとしたら事実から目をそらしたいだけなのかもしれない。
もちろん見たくないものを見る必要はないのだが、それも度が過ぎれば、「自分にとって都合の良い事実だけを知りたい(逆に言えば、自分に都合の悪い事実は知らないでいたい)」とか「自分が受け入れやすい事実だけを知りたい」といった危険な状態になってしまうのではないかと思う。

心地のよい映像や、共感出来る内容へと恣意的に編集してしまえばそれはフィクションだ。
しかし、ジャーナリズムの本質とは、事実を正しく伝えることである。
全国民が悲しんでいるわけではない。喜んでいる国民も一方にはいるのだという「事実」を伝えようとするその姿にジャーナリストとしての良心と正義を感じた。

私たちの国は、多くの悲劇を生んだ戦争へと国をあげて突入してしまった過去を持つが、当時の、制限された情報や思想統制の時代から比べると、現代は、多くの情報を手に入れられ、自由で多様な意見や考え、思想を持ち、そして発表出来るようになったはずだ。

「事実」と「意図が加えられた情報」との違いを見極める力を持つこと。
真実から目をそらさずに正しい情報を手に入れ、その上で冷静にしっかりと自分の頭で考え、そして行動に移すこと。
それこそが大切であると思う。

2010年9月30日 (木)

Internet Explorer 9 を入れてみた

Internet Explorer 9 (Beta) を入れてみました。

速くなったのかな?

入れたばかりなので、まだ速さを実感できる場面に遭遇していませんが、「お気に入り」や「履歴」が右側に出るのは、どうも使いづらく感じる。
矢印を押して、固定すると左側に移動するのに。。。

ただ、右にナビゲーションを持ってくるものが、だんだんと増えてきたね。

Ie9

最初から左に設定することもできるのかな。

2010年9月29日 (水)

「貧乏入門」は「金持ち入門」

すこし前になりますが、「貧乏入門」という本を読みました。
著者は、小池龍之介さんという、東大卒のお坊さんです。
内容は、お金やモノにとらわれすぎると幸せになれないという考えの基、モノを減らし消費を抑えることで煩悩からのがれる方法や考え方について書かれています。
ここまで、消費しない人が増えてしまうとマクロの経済活動に支障が出ると思ってしまいますが。。。

さて、興味深かったのが著者自身の生活における、お金の収支ですが、
本の序章に書かれている内容からすると

持ち物は驚くほど少なく、部屋は空っぽ

支出は

家賃 45,000円
電気代 800~900円
冬の灯油代 
ガス代 2,000~3,000円
水道代 1,000円
銭湯代 450円×回数
コインランドリー代 
食費 15,000円~25,000円(オーガニック食品にこだわっている)
その他

で、10万円に届かず。
現在は、寺に暮らしているため 5万円ほどなのだそうです。

これでも暮らしていけるんだね。
もちろん家族がいれば無理だろうけど。

一方で収入は、主催する座禅会で、さい銭箱に入れてもらえる15万円ほどの他、講座などの講師料や本の印税などがあり、十分お釣りがでるそうです。

なるほど、これであれば(この本の趣旨とは異なりますが)「お金が貯まってしまうよな」と思いました。

そこで思い当ったのですが、要は「貧乏入門」は「金持ち入門」ではないかと。

ちなみに、お金持ちとは「金づかいの荒い(羽振りの良い)人」や「金回りのいい人」とは違います。
現預金や資産価値の高いものを多く持っている人を金持ちと呼ぶのであって、お金をバンバン使う人のことではありません。
本当の金持ちの多くは案外質素な生活をしているのだそうです。
世界第二位のお金持ち、
ウォーレンバフェットさんの質素な生活は有名ですね。

つまり、入ってくるお金よりも、出ていくお金の方が多いから貧乏になってしまうのであって、例え少なくても、入ってくるお金よりも出ていくお金の方が少なければ、着実にお金持ちになっていくということですね。

その例えで分かりやすかったのが、

伊丹十三監督の名作 「マルサの女」の一場面です。

脱税の疑いで調査に入った、津川雅彦さん演じる、花村という国税庁の統括官に、山崎努さんの演じるラブホテルの経営者が、どうやったらお金が貯まるのかと聞かれて答える場面です。
(ここでの山崎努の演技は迫力があったな)

以下、山崎努のセリフ
-------------------------------------------

金 貯めようと思ったらね 花村さん
使わないことだよ

(中略)

今 ポタポタ落ちてくる
水の下にコップを置いて
水 貯めているとするわね

  ・

あんた のどが渇いたからって
半分しか貯まってないのに
飲んじゃうだろ

  ・

これ最低だね

  ・

なみなみ一杯になるのを待って・・・

  ・

  ・

  ・

それでも飲んじゃダメだよ

  ・

一杯になってあふれて垂れてくるやつ

これを舐めて我慢するの

そうすりゃコップ一杯の水は・・・

  ・

  ・

  ・

  ・

-------------------------------------------

この後、ストーリーが大きく動くのですが、これから観るかも知れない人のために伏せておきます。

  ・

  ・

金 貯めようと思ったらね 花村さん
使わないことだよ

名文句です。

私も小さい頃、母から「お金はさびしがりやなんだよ」
だから「仲間がたくさんいるところに集まるのだと」教えられましたが、同じことですね。

ここまで書いておいて、自分が出来ているのかと聞かれれば、返事に窮するのですが、真理であることは間違いないと思います。

2010年9月27日 (月)

”狂気の経営”

武富士、負債総額4000億円…更生法申請へ

.

消費者金融大手の武富士が、会社更生法適用の申請に追い込まれた。
そこで思い出したのが、このタイトル。

狂気の経営

これは、2002年の「日経ビジネス誌」で武富士の特集記事に付けられていた副題だ。

「天才と狂人は紙一重」そんな言葉を想起させる男がいる。
という前書きから始まるこの特集記事は、とても迫力のある記事であった。
(2002年8月26日号)

.

当時の武富士はビジネスの絶頂期にあった。
2001年度の経常利益ランキングは、任天堂をも上回る 2,316億円
黒いレオタードで踊る「武富士ダンサーズ」のCMがやたらと流されていた頃だ。

記事の内容も衝撃的であった。

・武富士は軍隊

・ワイシャツは白の無地が原則。女性の指輪も禁止されている

・1年に1,000人が入社し、1,000人が辞めていく。社員数は約4,000人なので、4年間で全社員が入れ替わる計算になる

・降格も容赦なし、役職者がヒラ社員になるのは当たり前

・昔は、督促の電話をするときは「林」と名乗っていた。顧客からの折り返しの電話に、電話を取った人間が誰であっても「私が林です」といってそのまま対応出来る

・パソコンのキーボードは特注品で、疎い社員でもすぐ使えるように、「あいうえお順」になっている

などなど。

.

私が目指す経営のスタイルとは、まったくの対極にあるような姿であるが、それが故に強い衝撃を受けた。

さらに、記憶に残ったのが、創業者であり会長(当時)であった武井保雄さんのインタビューである。

「私は経営って難しくないと思うんですね。何でみんな経営に成功しないんだろうか」

会社を始めて数年目の私にとってこれまた衝撃であった。

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絶頂期であったからこそ言える言葉でもあろうが、特集記事の冒頭にある、武井氏の商売のルーツである「ファミリーショップたけい」という田舎町のよろず屋にさかのぼっての記事から、武富士の前身である「富士商事」立ち上げのころの記事など読むと、その言葉に力を増してくる。
(奇しくも武井氏の実家は、「日本の資本主義の父」と言われる渋沢栄一氏の生誕地のすぐそばなのだそうだ)

マスコミ嫌いと言われた武井氏のインタビューは貴重で、ビジネスに対する厳しさを学ぶことが出来た記事でもある。

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栄枯必衰の理の通りと言えばそのままであるが、時代の流れ、環境の変化、そして一方でそれに流されない経営哲学についてと、いろいろと思い返し、考えさせられるニュースであった。

2010年8月18日 (水)

どんなときにもお客さん

会社という組織は人と社会を良くしていくことで存在しています。

提供する商品やサービスが、世の中で必要とされるものでなければ売れないし、売れなければお金が入ってこないし、当然、組織を存続させられないからです。

しかし、よくある間違いは「いいものを作れば売れる」という錯覚です。
モノやサービスが溢れた今の時代、独りよがりの「いいもの」を作ったって売れません。
まったく逆で、売れるものがいいものだというのが定説です。

「売る」という言葉が違っているのかもしれません。
多分、「買っていただく」が正解なのでしょう。

ただ、会社の使命として、いいもの(いいサービス)を作らなければいけないことも事実です。
そこでポイントになるのが「いいもの」という言葉の定義です。
あくまでも「いいもの」とは、お客さんがそれに価値を感じてくれるかどうかで決まるのです。

.

「どんなときにも、まずお客さん。こうしてやったらお客さんはどんな風に喜んでくれるだろうか、と想像しながら仕事をしなければならない」

.

と、本田宗一郎(ホンダの創業者)さん(だったと思う)がテレビで言っていたのを見たことがあります。

そこには、独りよがりの「いいもの」ではなく、お客さんが、使う場面への想像力や思いやりの気持ちがあります。

まったくその通りだと思います。

2010年8月11日 (水)

ユーザビリティとは「使い心地」

私の会社では、ウェブサイトの構築やシステムの開発を行っているのですが、それらを行う上で基本となる大切な考えがユーザビリティです。

ユーザビリティ(Usability)とは、英語のUse(使う)とability(可能)を組み合わせた造語で、日本語では「使いやすさ」や「使い勝手」と訳されて使われます。

「アクセシビリティ」や「ユニバーサルデザイン」と近い概念ですが、いずれも学術的には「人間工学」と呼ばれる一種の科学的分野の中に含まれています。

「人間工学」は、欧州をルーツとする、身体に負担をかけない工業製品を作る考え方であるエルゴノミクス(Ergonomics)と、アメリカで生まれた、ヒューマンファクター(Human factors engineering)の考え方を包括する実践的な科学です。
エルゴノミクスは、身体的な負担や効率を考えるいわば工学的な分野なのに対し、ヒューマンファクターは、表示(インタフェース)や認知、認識、学習、人間心理などの分野までを含む大きな概念です。

さて、「ユーザビリティ」は、その「人間工学」の中に含まれるひとつの概念ということが出来ると思いますが、ユーザビリティを定義するひとつの指標である ISO9241-11 という規格では、ユーザビリティを、

ある製品が、特定の利用状況、特定のユーザーによって、特定の目標を達成するために用いられる際の、有効さ(Effectiveness)、効率(Efficiency)、ユーザーの満足度(Satisfaction)の度合い

であるとしています。

System usability comprises the extent, to which a product can be used by specified users to achieve specified goals with effectiveness, efficiency, and satisfaction in a specified context of use, where:

    * Effectiveness measures the accuracy and completeness with which users achieve specified goals;
    * Efficiency measures the resources expended in relation to the accuracy and completeness with which users achieve goals;
    * Satisfaction measures the freedom from discomfort, and positive attitudes towards the use of the product."

さてさて、

小難しいことを書いてきましたが、

ユーザビリティを考えていく中で、思い立ったのは

ユーザビリティとは、つまり「使い心地」のことではないかということです。

「使いやすさ」や「使い勝手」という言葉で、有効さ、や、効率をとらえることはできると思いますが、私は、真のユーザビリティとは、3つ目の「ユーザーの満足度」を高めることだと思っていますので、それを言い表す言葉としては「使い心地」がぴったりなのではないかな。と思った次第です。

何のオチもありませんが、以上です。

2010年7月27日 (火)

One for all. All for one

One for all. All for one とは、ラグビーの精神を表わす言葉として有名です。

1人は、みんなのために。 みんなは、1人のために。

という意味ですが、
もともとは、アレクサンドル・デュマの小説「三銃士」の言葉なのだそうです。

チームの一員である以上、自分の責任を果たすことはもちろん、チームに貢献する責任も果たさなければなりません。

組織(チーム)とは組織をして成果を上げる存在だからです。
自分がいくら頑張ったからといっても、組織として勝てなければ(成果を上げられなければ)、自分も得られるものは無いのです。

チームは必ず助け合っている。
自分も必ず助けられているのだ。
ということを忘れてはならないと思います。

.

バスケットボールの試合で勝利をおさめるのは、
5人のプレーヤーで構成された”最高のチーム”であって
5人の”最高のプレーヤー”で構成されたチームではない。
(ビジョナリーピープル 英治出版 より)

2010年7月23日 (金)

戦略とはなにか

ビジネスは戦いになぞらえられることが多い。

戦争のように、人が傷ついたり死んだりすることが直接は無いのでイメージしにくいが、
資本主義に於けるビジネスは、需要が決まっていれば、誰かが勝つ(需要を満たし対価を得る)裏で、必ず負けている誰かがいる。
まさに戦いである。

だからこそであるが、ビジネス上使われる言葉には軍事用語に類するものが多い。

その中でも良く使われるのが「戦略」である。
良く使われるが故に、安易に使われることも少なくなく、「戦術」や「戦闘」と同列で使われることも多いのだが、「戦略」とは極めて大きな概念である。

戦略とは何であるのかは、その漢字を見ると分かる。

「戦」は戦いである。

「略」は、

① はぶくこと。省略
② おおよそ、あらまし
③ 知恵。はかりごと
(大辞林 第二版より)

という意味を持っている。

従って

「戦い方の知恵」 や 「おおよその戦い方」 だという解釈が出来るが、
注目したいのは、①の「はぶくこと」である。

実は、戦略とは、戦いをはぶくこと でもあるのだ。

孫子の言葉に、

百戦百勝は善の善なるものにあらざるなり
戦わずして人の兵を屈するは、善の善なるものなり

というものがあるが

戦わずして勝つ、その方法こそが戦略なのではないかと考える

戦いとは手段であって目的ではない。
目的は勝つことである。

であれば、戦いをはぶく つまり 「戦わずして勝つ」
というのは最上の戦略であり、だからこそ、それを「戦略」と呼ぶのではないかと思う。